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小説の習作として書いたヘイグさん夢を見るのノベライズ版。

"あの日"から一体、何日経ったのだろうか。
数えていないが、数ヶ月は経ってるだろうと、商店街の惨状から予測できる。
かつて賑わっていた商店街。
しかし今は割れた窓のガラスが散乱し、その面影はどこにもない。人だって一人も…
「悪夢を見るか?」
いや、一人いた。俺以外にもう一人。
静まり返った商店街で、どこで拾ってきたのかミネラルウォーターを飲みながら俺のすぐ後ろを歩いていた──俺ほどじゃないが無造作な白い髪に、俺ほどよりも黒い衣装に身を包んだこの男…世界がこうなる前は吸血鬼と呼ばれる種(俺もそうらしい)を退治することを生業としていた「退治屋」──。名前は長ったらしくて覚えていないので退治屋と呼んでいる。
「あ?」
その、俺以外の(今のところ)唯一の生き残りである退治屋があまりに間の抜けた質問をしてきたので、俺も思わず間の抜けた返事をして振り返った。
「吸血鬼も悪夢を見るのか、気になって」
何の意図がある質問なのだろうか。ただ場を和ますためのなんてことない会話のつもりなのだろうか?
正直、俺は無益な会話は避けたいほうで──それは世界が終わって二人きりになったとしても変わらなかった。
「見ない」
興味ない、というふうに視線を逸らす。
「本当か?トイレが金庫の中にある夢とかも悪夢に入るぞ」
俺の意思表示とは裏腹に平然と会話を続けられ、若干腹立たしさを覚える。
「なおさら見ねえよ!」
思わずがなる。これ以上無益な会話はしていられないので、自分から話題を変えてやる。
「そんなことより…今日どこで寝るんだよ?また床で寝るのか?」
一人より二人のほうが生存率が高いだろう、ということで二人で行動を共にするようになり、ふらふらとあてもなくロンドン中を彷徨っているのだが…最近の寝床事情は俺にとっては深刻な問題だった。
「俺はベッドで寝たいんだよ。硬い床じゃ寝付きが悪い」
「ここらへんは商店街だし、仕方ないだろ。しばらくは我慢しろ」
…これも無益な会話だったかもしれない。
そのあとは俺も退治屋も無言で、ただ夢遊病のように、どこに行くでもなく歩き続けるだけだった。

「おーい、ヘイグ」
不意に、聞き覚えのある声が後ろから聞こえる。退治屋ではない。もっと不愉快な、できれば二度と聞きたくは無かった声──
「ハールマン…」
派手な赤い髪色の、体格の良いドイツ人の男。間違いなく、以前俺につきまとっていた吸血鬼、フリッツ・ハールマン。ハールマンの登場に、俺は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「やっと見つけた。探したぜ!」
そんな俺の顔を確認したにもかかわらず、以前と同じ調子で馴れ馴れしく話しかけてくるハールマン。
「俺がいなくて寂しかっただろ?」
「…せいせいしてた」
ハールマンの厄介なところは、いくら冷たくあしらっても全く意に介さないところだ。
「照れちゃって」
拒絶の言葉を都合の良いように変換され、呆れ返る。以前はこのやりとりを毎日のようにしていた。…我ながら、よく我慢してきたものだ。
「で、何の用だ?お前に構ってる暇はないんだけど…」
そう言い終わったところで、違和感に気付く。
…ここはどこだ?
あたり一面、真っ白な空間──。
俺はさっきまで、商店街にいたはずでは?
それに、生き残ったのは俺とハールマンではなく…退治屋だ。退治屋がいない。俺の後ろを歩いていたのはこんな馴れ馴れしい不躾な男ではなく、あの"真面目"を体現したかのような男のはずだ。

「用?」
そんな俺をよそに、ハールマンはまるでここが慣れ親しんだ街道か、あるいは自分の家の中であるかのように悠然と続ける。
「そんなの…最初に出会った頃から言ってたろ。」
鼻で笑いながら俺をまっすぐ捉える。
こいつは、いつも目が笑っていない。丸く大きな瞳で、一見柔らかい印象を受けるのだが、その瞳の奥は常に冷たく、獲物を虎視眈々と狙っている。その獲物とはこの場合俺のことで──
突如、肩を掴まれ押し倒される。
その瞬間、白い空間が真っ黒に塗り潰され、まるでブラックホールの中にでも入ったかのようだった。
突然の出来事に呆気に取られていると、上にのしかかったハールマンがどこからかナイフを取り出す。
「お前を食べる。それだけだよ。」
"食べる"
たしかに、出会った最初の頃からそんなような事を言っていた。それは性的な意味でもあり、食欲的な意味でもある。
だが、俺はこの男に負けるはずがないと思っていた。別に根拠なんかない。ただ漠然とそう思っていただけだった。
ハールマンは、にたにたと笑いながらナイフの刃を俺の首元に当て素早く引いた。鋭い痛みと共に俺の視界は、まるで赤い木の実かなにかが目の間で破裂したかのように真っ赤に染まった。首──頸動脈を切られたのだ。
慌てて首を手で抑えるが、血はとめどなく溢れ出てまるで意味をなさなかった。自分の中にこんなにも大量の血があるのかと驚き、これだけ自分の中に血があるのに何故他人の血を欲するんだろうとか、服が血で汚れてどうしてくれるんだとか、どこか他人事に捉えていて、現実逃避だろうか…妙に冷静だった。
しかしすぐ目の前の捕食者の存在に意識を引き戻される。
「お前ってほんと、かわいいヤツ」
ハールマンは俺を見下ろし、血に濡れながら笑っているが、相変わらず目は笑っていない。
逃げないと───
今まで生きてきて、初めて本能的な恐怖を感じる。死という恐怖に怯えながら、ばたばたとみっともなく手足を動かし逃げようとする。意味がないと分かっているのに、片手は首にあてられて離せずにいるためうまく動けない。
もう一方の片手を地面につけた瞬間ナイフが音もなく飛んできて、手の甲に突き刺さる。
あっ、と思ったのと同時に、後ろからハールマンに頭を掴まれ、地面に叩きつけられる。
信じられないほどに強い力で押さえつけられ、かろうじて動けていただけの俺は、まるで金縛りにあったかのように動けなくなった。根拠のない自信はすぐに砕かれた。
「こうなることはお前が一番よく分かっていたはずだ」
俺が、こうなることを分かっていた?
一体、何の話をしているんだ?
言い返そうにも、首が切られているために、ヒューヒューと気道から空気が抜ける音しか出せない。
「お前は俺には勝てないのさ」
ハールマンは、俺の思考を読んだかのように続ける。
クソ、なんなんだ。
ここはどこなんだ?なんで俺はこんな目に遭っているんだ?退治屋はどこだ、俺を置いていきやがって、あの野郎、今度会ったらただじゃおかねえ!
八つ当たり気味にめちゃくちゃな思考を巡らせていると、ハールマンが聞き捨てならない台詞を言う。
「非力なクリスチャンめ」

……なんだと?
その一言に、我に返り冷静さを取り戻す。
たしかに、俺はかつてクリスチャンだった。正確には「俺の両親が」プリマス・ブレザレンという、とても厳格な宗派のクリスチャンだ。俺はその家に生まれただけにすぎず、とっくの昔に棄教している。
だが俺はそんなこと、こいつには一度も教えた覚えはない。どうしてそのことを知っている?
お前は…誰だ?

「ジョージ、また戒律を破ったな」
はっ、と顔をあげると、俺を喰らおうとするハールマンの姿はもう無かった。代わりに黒いスーツを着た、黒髪の男が何かの本を片手に俺を見据えていた。
顔は不自然に黒く塗り潰されていて見えなかったが、それが誰であるかはすぐに分かった。
俺のことをジョージというミドルネームで呼ぶ者など、この世には2人しかいない。そして、(さっきの黒い空間ほどではないが)窓が板で塞がれていて暗く、湿っぽいこの場所は…間違いなく、ウェスト・ヨークシャーにある俺の実家だ。
目の前にいる男は、ジョン・ヘイグ…俺と同じファーストネームの、俺の──父親だ。
「父さん」
突然の父親の登場に、驚きを隠せない。ハールマンはどこに行ったんだ?
さっきまで崩折れていた俺の体は、しっかりと地に足をつけ、立っていた。
父は、片手に持った本──聖書を見ながら、呆れたような口調で言う。
「教会から連絡があったぞ。ブレザレンの上着を盗んで、線路に投げたって?まったく…」
ブレザレン(兄弟)とは、同じ宗派の同胞のことだ。プリマス・ブレザレンは聖職者制度は認めておらず、立場に関わらず皆兄弟姉妹と呼びあっていた。
同じ教会に通う同じくらいの歳のブレザレンの上着を盗んで、線路に投げた…遠い昔の子供の頃の思い出を、父はまるでつい昨日のことであるかのように語る。不思議なことに、俺もその出来事がつい昨日あったことのように感じ、
「あれはあっちが先に馬鹿にしてきた。だからやり返してやったんだ!」
子供のように言い訳をした。いや、むしろ、子供そのものだった。父を前にして、俺は子供に戻っていたのだ。
「今に"悪魔の印"が刻み込まれるぞ」
悪さをすると体に刻み込まれ、罪悪感に蝕まれることになると父から教わっていた悪魔の印。子供の頃、最も恐れていたものの名を出され、一瞬怯む。が、
「そんなもの嘘だ、そんなのできない!」
思考は大人のままで、少し安堵する。
しかしその啖呵は虚勢でもあり、思わず後退り、よろける。よろけた先の背の低いチェストに手をつけると"べちょっ"と、不快な音がし、生暖かい何かが手を濡らした。
驚いてその何かを確認する。暗い空間の中でもはっきりと見えるくらい赤い、血だった。
血の中には無数の蛆が蠢いており、とても気味の悪い光景だった。
何故、チェストに血が?何故蛆が?
そんなこと、どうでもよかった。急にその血がどうしようもなく欲しくなり、手についた血を舐めようとする。
「ジョージ、何をしているんだ」
遠くで父の声がする。
「ジョージ、主に祈りを捧げなさい」
祈りを捧げることが如何に無意味であるか、子供の俺でも分かっていた。

「おい!」
突然誰かに肩を揺さぶれ、びく、と体が跳ねる。
気がつくと、世界が横たわっていた。
いや…横たわっていたのは俺の方で…つまり、俺は寝ていたのだ。夢を見ていたのだ。
「目が覚めたか?ずいぶんうなされていたぞ」
肩を揺さぶり俺を起こしたその男が、心配そうに顔を覗き込む。
「…大丈夫か?」
夜になっていたのか相変わらず暗いが、白い髪と白いワイシャツははっきりと見えた。退治屋だ。
夕方くらいに、もはや廃墟と化したコーヒーショップで休憩し、退治屋のコートを剥ぎ取ってそのまま床で寝た記憶が、だんだんと蘇ってきた。体を起こし、ここが本当に現実なのか確かめるように夢で切られた首をさすっていると、退治屋はペットボトルを差し出してきた。
「飲むか?」
昼間飲んでいたミネラルウォーターだ。半分くらい減っていた。
汗だくで喉も乾いていたが、退治屋に気を遣われた、なんだかその事実が気に食わず、
「いらねえよ、お前の飲みかけだろ」
飲みかけかどうかなんてどうでもよかったが、断るのにはちょうどいい理由だったので、潔癖を装った。
「人の血飲んでおいてよく言う…」
ごもっともだ。
退治屋は差し出してきた水を自分で飲みながら、
「昼間はああ言ってたけど、やっぱりお前も悪夢を見るんじゃないか。どんな夢見たんだ?」
昼間の無意味な質問をまたしてきた。
俺は何も答える気にはなれず、
「トイレが金庫の中にある夢」
嘘をついた。
流石にこんなにもあからさまな嘘をつかれたら、喋り好きな退治屋だって、もう会話する気にはならないだろう。
思った通りしばしの間、沈黙が続いた。
急に、なんだかものすごく寂しい気持ちになった。
俺は別に、退治屋のことは好きじゃない。退治屋だって俺のことは好きではないだろう。
それでも、今は世界で二人きりなのだ。他に会話する相手はいない。
ちょっとくらい、その無益な会話に付き合ってやってもよかったかな。
そう思ったが、今更話の続きをする気にもなれず、とりあえず無言で肩にぶつかってみる。退治屋は衝撃で飲んでいた水を吹き出しむせていて、愉快な光景だった。
少し怒りながら、おいっ!と俺に目をやる。
俺はまるでそんなことは気にも留めず、肩にもたれかかりながら、
眠くないのに「眠い」と言ってみた。

退治屋は、いつも少し冷たい態度だ。
"退治屋"として、一応、俺のことを敵視しているのだろう。当然のことかもしれない。
ただ退治屋は、俺のことを喰らおうとはしてこないし、主に祈りを捧げることを強要してきたりもしない。
それだけで良かった。それだけで、俺にとっては充分すぎるほどの安らぎだった。
「うなされたら、また起こしてよ」
世界が平和だった頃は絶対言わなかったであろう、らしくない台詞が、不意をついて出た。退治屋も不意をつかれたようで、少し上擦った声で
「ああ…」と、素直に返事をした。
するとさっきまではあんなに目が覚めていたのに、急に眠くなり、ずるずると頭を下ろしていった。筋肉質で、枕というには硬すぎる太腿に顎を乗せ、目を瞑ってみる。
退治屋は困ったような素振りをしていたが、拒絶するでもなく、
「そこで寝るのか…」
と言うだけ言って、ただされるがまま、腿を枕にされていた。

…本当は、悪夢なんて子供の頃から何度も見ている。
寝付きなんて、ベッドだろうがなんだろうがとにかく悪くて…寝るのは嫌いだった。
でも、お前が起こしてくれるなら──

きっと、よく眠れるはずだ。

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